虹を蹴る 虹を蹴る

第二回「生意気すぎる、高校生」

2019.08.16 Fri

瑞希は顔を引きつらせて固まった。ひとまわりも年上の女を呼び捨て? いくら高校生とはいえ、生意気にもほどがある。そう思っていると、逸哉はニヤッと笑った。
「冗談っすよ。つか、思ってること顔に出しすぎじゃないっすか、瑞希さん」
 その小馬鹿にしたような口調に、完全に舐められているのがわかった。ムッとして、瑞希は顔をしかめた。
「……別に、わたしはただの寮母代理ですし。特にいい顔するつもりもないですから」
「そうなんですか。だったら、余計なこと言わないでもらえます?」
「は?」
「だから、龍之介みたいな奴に。よく簡単にああいうこと言えますね」
「え……?」
 少し考えて、瑞希は眉をひそめた。龍之介に、瑞希はなにか変なことを言っただろうか? 龍之介は気さくで話しやすくて、結構楽しく会話できた気でいた。もちろん瑞希だって気を遣ったし、相手は高校生だ。嫌な思いをさせないように振る舞ったつもりである。
 すると、わざとらしく逸哉は大きなため息を吐いた。
「励ますようなこと、言ってたでしょ。龍之介(あいつ)が親切だってのは認めるけど、それだけでそんな簡単にラグビーなんか上手くなるわけないじゃないっすか。適当なこと言うの、やめてくださいよ。ま、そんなの龍之介だってわかってるだろうけど」
「え……。それは……」
 確かにさっきのは適当もいいところだった。でも、龍之介にあんなことを言われて、『そうだよね、きみみたいな子には無理だよね』なんて、言えるわけがない。瑞希は、龍之介のためというよりは自分がなにか言い返したいという気持ちだけで、思わず逸哉にこう言った。
「……そんなの、やってみなければわからないじゃないですか」
「そりゃそうですけど。でも、正直なところ、そうは思ってないでしょ」
「そんなこと……」
 瑞希は、返答に詰まってしまった。女の子みたいな顔をしている、気さくで親切な高校生。その龍之介が、闘球なんていう漢字を当てられるスポーツの花形選手になれるとは、どう考えても思えない。
「ほら、やっぱりね。つーか、瑞希さんって、聞いてた通りホントになんも考えてないんですね」
「……? なんのことですか」
「だって、美代子さんがよく瑞希さんのこと話してましたから」
「は……?」母の美代子が?「な、なにを……?」
「さあ。――三十目前で七年物の彼氏に振られた上にここに来るまで住所不定無職だった話とか?」
「!?」
 瑞希は内心でぎゃふんと言った。この逸哉の言った通りである。大学四年生の頃に付き合い始めて同棲までしていた奴に、瑞希はつい一か月ほど前に生ゴミのようにポイッと捨てられたのだ。さらには同じタイミングで派遣切りに遭い、瑞希は二十九歳にして、同棲していた元恋人宅の一角を不当占拠する住所不定無職の身となった。しかしまさか、その不肖の事実を身内によって他人に暴露されていようとは。
 やられた。長いこと離れて暮らしていたので、すっかり忘れていた。瑞希の母である美代子は、恐ろしいほどのスピーカー女なのだった。まわりに知られたくない瑞希の秘密も、平気でベラベラ喋ってまわる。だが、まさか瑞希には縁もゆかりもない高校生相手にもこんな恥ずかしい遍歴を触れまわっていようとは。
「ま、そういうのはどうでもいいですけど。でも、なんもわかってないくせに、無責任に期待を持たせるようなことを部員に言わないでくださいね」
「……」
「じゃ、用はこれだけなんで。そうだ、今夜の夕食くらいはまともな飯を作ってもらえます? 寮母さんの仕事なんですから」
「え?」
「あんたの作る飯(めし)、適当すぎだってもう結構な評判ですよ。これ以上手ェ抜かないでくださいね。ここ辞めたら無職に逆戻りなんだからさ」
 また意地悪く笑って、逸哉はとっとと瑞希に背を向けて去ってしまった。
 ――なんて腹立たしい奴なのだろう。あまりの憤(いきどお)りに、瑞希は大きく眉根を寄せた。

 言うに事欠いて、『わかってない』だと? 失礼極まりない男子高生の言葉が妙に耳に残り、瑞希は顔をしかめて唇を嚙んだ。榊野逸哉とかいったか。なんて腹立たしいクソガキだろう。どうしてあの親切な龍之介が、あんな性悪と友達なんかやっているのだろうか。
 しかし、ムカつく高校生のことは、すぐに頭から消えた。代わりに現れたのは、うっかり七年も付き合ってしまった元恋人の顔だった。
『瑞希はなんにもわかってない』。そうだ。あいつも、別れ際、『わかってない』って言いやがったんだ。若い女に乗り換えるなんていう理由で、七年も付き合った女をフランクに捨てたくせに――男の言うワカッテナイと、女の言うワカッテナイは、根本的に違う。
 だけど、あいつは勝手だけれども、瑞希だって付き合っている間はワガママ放題だったから、こうなったのもしょうがないとも思う。遅かれ早かれ、いや、思いっきり遅すぎるけど、これは避けられない結末だったのだ。
 後悔と反省と憤怒にキリキリしながらまな板に包丁を叩きつけるように調理をしていると、すぐにも夕食の時間になった。寮生のために食事を作っているだけで一日が終わる。こんな場所で、日々をどうやって生きていけばいいのだろうか。リフォームを終えたばかりだという白虹寮が、案外綺麗なのが唯一の救いだった。しかし、そもそもの施工料をケチったらしく、壁はやたらと薄いのが玉に瑕だが。

 とても室内に籠もっていられなくて外に出てみると、部長を務める少年とかち合った。お、今度は部の練習着を着ている。へえ、部長君の名前は笹野啓太(ささのけいた)か。その啓太がちょっと目を瞬き、瑞希にこう訊いてきた。
「どうも。なんか用ですか。龍之介、呼んできますけど」
「いや、特に」
 本当に用なんかない、この場所には。怪訝そうに去っていく啓太の背中を、瑞希は目を細めて見送った。
 玄関エントランスの裏手にある大通りを挟んだ先に、央学の校舎はあった。他の部寮や運動施設なども、周囲に点在している。央学は、標高数百メートルほどの小さな山のふもとに佇む高校なのだ。そばには、民家もちらほら建っている。ラグビーグラウンドは、目の前の斜面をずっと進んだ先にあった。
 初夏の日差しは底抜けに陽気で、酷く美しかった。木々の緑は日々その濃さを増し、薫風は鼻を心地よくくすぐる。避暑にも良さそうだし、気持ちのいい土地ではある。
 が、暮らすとなると、感想は変わる。

「……今すぐ帰りたい……」
 この央学に来るにあたってバッサリ切った頼りない髪の毛先を、瑞希はくしゃくしゃと撫でた。……でも、帰る家なんか、どこにもないのだ。

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INFORMATION:

小説『虹を蹴る』全編は、集英社オレンジ文庫にてお読みいただけます。

『虹を蹴る』 (集英社オレンジ文庫)
せひらあやみ著  花恵ヨシ装画
http://orangebunko.shueisha.co.jp/book/4086802740

冒頭試しよみ漫画はこちらhttps://r.binb.jp/epm/e1_122670_18092019121422/