虹を蹴る 虹を蹴る

第五回「誰のために頑張るの?」

2019.09.06 Fri

 延々と曲がりくねった上り坂は、まるでいろは坂だ。この先には山頂公園があるが、そこまで行かなくても、充分に町並みを見渡すことができる。
 桜はもうさすがに散ったが、躑躅や菜の花や藤が最盛期を迎えていた。朝の五時に白虹寮を出たから、今はもう五時半近いだろうか。そろそろ、寮母代打でやってきた彼女が起き出す頃だ。
 五月に入ったというのに、たかだか標高数百メートルの山頂はとても寒く感じた。湧き上がっていた汗が、一瞬にして冷えていく。
 龍之介は、央学ラグビーグラウンドの裏手から登ることのできるこの山が好きだった。入寮以来続けている早朝の自主練習では、必ずこの山を登った。
 ここから、百メートルの坂道ダッシュを十本こなす。もともと中学時代は陸上部に入ろうかと思っていたのだ。足の速さには自信があったが、最近少しずつタイムも縮んでいる。
 龍之介が担当しているのは、バックスのウィングというポジションだ。パスで展開したボールを大外で受け取ってゴールラインまで運ぶ、フィニッシャーである。走力に加えてタックルに負けない強い体作りが基本だが、龍之介はまだまだその途上にあった。
「……逸哉からパスを貰ったら、絶対ゲインを切る」
 毎朝この山頂で呟いている言葉を、龍之介は今日も口にした。ゲインというのは、自チームが陣地を敵ゴールへ向けて進めることをいう。一人の時にも『トライを取る』と言えない自分が情けなかったが、この誓いだけはもう破らない。逸哉と一緒にこの央学を受験すると決めた時、龍之介はそう決意したのだ。
 しかし、いつもは静かなはずの山頂に、一定のリズムをぎしぎしと刻む金属音が聞こえてきた。だんだん、近づいてくる。坂道の彼方に目をやり、龍之介はさらに驚いた。
「はぁっ、はぁっ……。やっと追いついたぁっ……。ここにいたんだね、龍之介君!」
 ぜえぜえ息を切らし、真っ赤な顔をした彼女が、必死に古ぼけた電動自転車を立ち漕ぎしている。いつもの通り、化粧一つしていない。龍之介には姉が二人いるが、姉たちより女を感じさせない女は彼女が初めてだ。
「……瑞希さん!? どうしたんですか、いったい」
『おーいおーい』と、自転車の瑞希が、大きく手を振っている。俺を追いかけて? でも、なんで、俺? 逸哉でしょう、大人(あなた)は。
 瑞希を迎える龍之介の頬に、自然と熱が集まっていく。こんな風に動揺するのは、全寮制男子校暮らしで若い女を見慣れなくなったせいかもしれない。ただそれだけのはずなのに、なぜか龍之介は、彼女の顔をまともに見ることができないのであった。

 ***

「毎朝一番に出てって練習してるのって、龍之介君だったんだね」
 顧問のヤスシが定めたという央学ラグビー部の独自ルール――すなわち、部員同士は下の名前で呼び合うこと――に従って、瑞希は龍之介を名前で呼んだ。
 龍之介に自転車で併走しながら、瑞希は大きく下っていく坂を彩る景色を眺めた。央学のグラウンドは、入り組んだ山道を下りた先にあるからまだ見えない。代わりに、長閑で優しい小さな町並みが梢の向こうに続いていた。綺麗だ。思いきって、追いかけてきてみてよかった。
「いいランニングコースだね」少しずつ熱を帯び始めた五月の太陽を梢から透かして見上げ、瑞希は続けた。「でも、寮母のわたしよりも早起きしてるなんて、ホント尊敬しちゃうな」
 坂道ダッシュが終わって山を下りる龍之介に、瑞希が自転車からそう叫ぶ。龍之介は、ちょっと顎を引いて答えた。
「習慣、みたいな、もんですから」
 しまった。結構キツそうだ。話しかけちゃ駄目なのか。瑞希は胸に下げたストップウォッチを見た。けれど、タイムが速いか遅いかは、いまいちよくわからない。
 山道を下り切ると、斜面にあるグラウンドに向かってまた上り坂が始まる。スピードを緩めることなく、龍之介は一気に登り切った。山頂からのタイムは、二十分少々。
 カツオの本棚から漁り出した『如月(きさらぎ)龍之介』とタイトルのあるノートに、瑞希はすかさずタイムを記録した。
 ちなみにこのカツオ自筆のラグビーノート、本棚からはなんと部員全員分が発掘された。中には、部員たち一人一人へ当てた必要な練習メニューが、短期計画と長期計画に分かれてビッシリ書かれている。部員の血液型と生年月日はまだわかるとして、両親や兄弟のプロフィールに加え、さらには性格傾向に星座までもが併記されていた。まさか、ラグビーの練習に星座占いでも活用するつもりなのだろうか。
 真面目一辺倒は、加減を知らないから困る。本人に渡さずに胸に秘めているところもまた気味の悪さに拍車を……。いや、カツオ叩きはこれくらいでいいか。
 龍之介が体幹トレーニングを始めたところで、瑞希は気が付いた。彼は、カツオノートに則した朝練メニューをこなしているのだ。もしかすると、龍之介はカツオが去る前にアドバイスを受けたのかもしれなかった。

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INFORMATION:

小説『虹を蹴る』全編は、集英社オレンジ文庫にてお読みいただけます。

『虹を蹴る』 (集英社オレンジ文庫)
せひらあやみ著  花恵ヨシ装画
http://orangebunko.shueisha.co.jp/book/4086802740

冒頭試しよみ漫画はこちらhttps://r.binb.jp/epm/e1_122670_18092019121422/