虹を蹴る 虹を蹴る

第五回「誰のために頑張るの?」

2019.09.06 Fri

 六時をまわったところで、白虹寮から誰か出てきた。口元を忙しなく動かしている。それは、瑞希が密かに『もぐもぐ君』と呼んでいる一年生だった。
「薫(かおる)君、おはよう」そう声をかけてから、瑞希はちょっと笑った。「顎のとこ、ご飯粒ついてるよ」
 それは、瑞希が食堂に仕込んでおいたプレ朝食のおにぎりのご飯粒だった。瑞希は密かに拳を握った。餌付け成功である。
「えっ? ……あ、すんません」
 もぐもぐ君こと熊井(くまい)薫は、まだ幼さの残る愛嬌たっぷりの顔に、はにかむような笑みを広げた。丸太のような太い首にくっついているのは、森のくまさんみたいな笑顔だった。
「おはようございます。どうっすかね、瑞希さん」
 おっとりとした動きでご飯粒を取って食べてしまうと、もぐもぐ君が瑞希の目を確認する。瑞希が頷くと、もぐもぐ君は微笑んで龍之介の横に走った。ドスドス。そんな音が聞こえそうな重量感のあるステップだった。朝食まであと一時間を切っているが、もぐもぐ君はちょっと動いてからの方がよく食べられるらしい。だから、朝からこうして体を温めるのだと言うのだが、プレ朝食もしっかり食べてきている。
 でも、これはお笑いなんかじゃなく立派な才能で、彼の努力でもある。
 カツオノートによると、もぐもぐ君の担当するポジションは、フォワードの左プロップだ。
プロップは、スクラムでは最前列の両脇(サイド)を担い、体格が大きければ大きいほど有利になる。支柱(プロップ)の名前の通り、チームで最も頑強な肉体を必要とするのだ。一にも二にも、もぐもぐするのが肝要である。食べるのが仕事とは羨ましい限りだが、そう簡単にレッツ・カロリーというわけにもいかない。ケーキやなんかのスイーツでは、筋肉にならないのだ。そう、ご存知の通り脂肪直行である。
 だから、筋肉を作るたんぱく質と、その吸収を高めるビタミンB6やビタミンCの同時摂取が望ましい。でも、一度の食事で吸収できるたんぱく質は限られているから、摂取回数を増やさなければならない。そのため、もぐもぐ君はこうして間食を積極的に摂るのだ。二つ年上のお兄さんはさらに身長が大きいようだから、もぐもぐ君も、きっともっと大きくなるのだろう。
 そうこうしている間に、ちょぼちょぼと一年生がグラウンドに集まってきた。
 最近、こんな光景によく遭遇するようになった。一年生たちに挨拶をし、瑞希は白虹寮を出る前に作っておいた朝食を温めに踵を返した。
 けれど、今朝も――逸哉の姿は、どこにも見当たらなかった。

 朝食前になると、一年生たちがグラウンドから大急ぎで戻ってきた。
 央学ラグビー部に残っている古い慣例で、一年生は上級生が現れる前に朝食を終えなければならない。絶対王政ならぬ絶対先輩制度に支配されながら、それでも一年生たちは笑いながら食事を始めた。上級生が現れるのはもっと遅い時間だ。
 一年生たちが食べ終わった頃になって、ようやく上級生たちがバラバラと食堂に入ってくる。すでに練習着を汗だくにしている一年生を見て、誰かが低く呟いた。
「……なんか最近、一年が朝から騒がしいな。こういうノリ、勘弁して欲しいよ。ヤスシがまた面倒くさくなる」
「まあまあ、別に好きにやらせとけばいいじゃん。俺らの代にはどうせ関係ないんだし」
 遥か遠い外野から一年生を眺めているかのような、寝惚けた声がぼそぼそと飛ぶ。瑞希は顔を上げなかった。まるで、老人みたいな会話だ。上級生たちのモチベーションを表すように、朝食はかなりの量が残っていた。
 すると、今朝もちゃっかりご相伴に預かろうというのか、ヤスシが食堂に飛び込んできた。
「おはよう、みんな! よし、全員揃ってるな。朝飯が終わったら、さっそくミーティングを始めるぞ」

「――先日の清大付属戦で、課題が見つかった者も多いと思う」
 まずは、そんな一言から始まった。あのボロ負けの試合には課題しかなかったのではないか――という突っ込みはさておき、ヤスシは続けた。
「試合感覚を養うには、実戦経験を多く積む他ない。これからは、なるべく多く練習試合を組んでいくぞ。まず今週と来週は、同じ高校と連続して試合をする。対戦相手は、桃川(ももかわ)工業高校だ」
 ヤスシが高らかにそう宣言すると、一瞬にして食堂に動揺が広がった。
「えっ……」
「桃工……!?」
 俯いていた寮生たちが、一斉に顔を上げる。ざわざわと動揺している部員たちに、瑞希は首を傾げた。川から桃太郎でも流れてきそうな名前だが、桃川工業高校にはなにかあるのだろうか。
 そばに座っていた龍之介の肩を叩いて訊くと、彼は複雑な表情になった。
「……桃工っつったら、ここら辺でもガラが悪くて荒れてる高校ですよ。央学でも、たまに桃工に絡まれたって奴の話は聞きます」
 龍之介が言い終わらないうちに、またヤスシが口を開いた。
「知らない者も多いと思うが、桃工にも去年からラグビー部ができたんだ。初心者ばかりの急造チームだが、相当鍛え込んでいると聞く。特に体格に恵まれたフォワード陣は強力だ。甘く見るな、強いぞ。先月行われた県内ナンバーツーの美祢ヶ丘(みねがおか)高校との練習試合はかなり競ったらしい」
「……」
 そんなに強い、それもいわくつきのチームと練習試合を?
 瑞希は、ハラハラとしながら、ホワイトボードの前に立つヤスシを見つめた。
「花園予選まで半年を切っている。本番に向けて、最適な布陣に切り替えていくぞ」
 そう言って、ヤスシは逸哉に頷きかけた。
「スタンドオフはおまえだ、逸哉」
「!」
 瑞希は息を呑んだ。チームを壊した過去のある、いわくつきの司令塔(スタンドオフ)。それをまた、あの逸哉にやらせるというのか。隣の龍之介は、瑞希以上に暗い表情をさらに硬くしている。構わずに、ヤスシは言った。
「自分たちの今の実力を知るんだ。そのために、この二試合では俺は口を出さない。大丈夫だ、俺はおまえたちを信じてる。おまえたちならきっと勝てる」

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INFORMATION:

小説『虹を蹴る』全編は、集英社オレンジ文庫にてお読みいただけます。

『虹を蹴る』 (集英社オレンジ文庫)
せひらあやみ著  花恵ヨシ装画
http://orangebunko.shueisha.co.jp/book/4086802740

冒頭試しよみ漫画はこちらhttps://r.binb.jp/epm/e1_122670_18092019121422/